アクティブ富山
黒部川Part1 調査特集 第1回 2001年1月
参考文献 村上兵衛著作 黒部川
黒部川地図 現在は黒部川扇状地一帯は日本でも最も水田比率の発達した所であり、コシヒカリを生産する地域として知られている。
 また、ジャンボスイカ「入善西瓜や黒部西瓜」の産地でもあります。
 しかしこの黒部の扇状地は、昔から安定した稲作などの耕作物が出来るようになったわけでなく、昭和初期、愛本合口用水事業が水力電気開発の影響を受けつつ完成して以後、さまざまな改良が重ねられた、ごく最近のことと歴史は語っている。
 この調査は先人の汗と血と命そして財貨が、そそがれてきた黒部川の流域の歴史他を紹介していきたい。

 1689年(元禄二年)7月13日 松尾芭蕉が奥のほそ道に『くろべ四十八ヶ瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出』と書いている。
 現在の地名の入善町や黒部市の黒部川扇状地では、そのころ、網の目のように流れたていた黒部川の川筋に「シマ」と呼ばれるちょっとした高地が点在し、そこに農家がばらばらと有った。
 下流には、沢杉の生い茂る荒地、石の河原も多くあったに違いない。
1.河川構造
   黒部川の構造は上下流を愛本付近で分けて考えれば良く判る。
 上流は約72kmあり、必ずしも長大な川では無いが、両岸からそそぐ支流は主要なもので24河川、愛本から上流を見て大体扇状に広がる、流域面積は816平方キロメートル、この流域は山深く、降雨量(雪)が豊かで、河床勾配が極めて急な山間を流れて、下流14kmの扇状地に流れ込むのである。
そのため出水時に流れる砂礫、土砂、泥は莫大な量である。 
(1) 河川位置
昔の黒部川の本流は、古黒部の地名に残る今日の小川下流(入善町と朝日町)の境あたりに出ていたと思われる。
 それから長い年月に間、洪水のたびに、次第に西へと移動していったものと思われる。
(入善側の方が砂礫層が深い) 
 この移動により各村落に災害をもたらした。
(2) 付近の地質ほか
は次回に


2.政策
 前田藩も領内から新開のお百姓※をつのりこの地を開拓したが、おそらく黒部川の氾濫により逃げたお百姓は多かったらしい。

3.災害の記録
   昔の黒部川の本流は、古黒部の地名に残る今日の小川下流(入善町と朝日町)の境あたりに出ていたと思われる。
 それから長い年月に間、洪水のたびに、次第に西へと移動していったものと思われる。
(入善側の方が砂礫層が深い) 
 この移動により各村落に災害をもたらした。
(1) 黒部川の古代における水害の記録は乏しいが、口碑によれば、
806年(平安時代初期、大同元年)8月4日、越中の諸川氾濫と伝えられるのが最も古いらしい。
(2) 938年(天慶元年)、黒部川の洪水によって田畑が大きな損害をこうむり、若栗村に鎮座する八社の神殿のうち三社が流失したと、若野神社緑起は伝える。
そのころの口碑では、「黒部川が暴漲(ぼうちょう)し五社の神のを大越に移せしより御越ち云いしを、のちに大越と誤書せり」と伝えている。
(3) 1326年〜28年鎌倉時代のすえ、石田村の話であるが、黒部川からの水が全村の良田は石田と化したと言う。
(4) 1573年〜91年(天正年間)、上杉謙信が越中に侵入しようとして、黒部川の出水に妨げられた、との記録がある。
(5) 1624年〜43年(寛永年間)、には大洪水により浦山村を分断し草高が2/3に減った。(分断された村は現在の浦山新村で入善町になっている)
(6) 1688年〜1703年(元禄年間)、今の黒部右岸にあった村々が直撃され、荻生村は分断された
それ以前は青木村までが一つの大きな村であった。今日、この川の両岸に五郎八の集落名が残っているのは、その名残だろう。
(7) 1704年〜10年(宝永年間)、入善一帯に被害があった。
1711年〜15年には、浦山、若栗、荻生の数村をつらぬいて奔流、そのため一宿新、若栗新が分断した


4.黒部川の治水(構造物)
 (1)堤防が築かれはじめるのは戦国末期、佐々成政が治政していたころ築かれた、「霞提」※の一部は黒部河畔に現存する。

今回はここまで!



 ※十二貫野の名称は新開百姓に一戸当たり十二貫文ずつ藩金を賜わったことから由来している。
前田藩の東端の関所「境の関所」ではたとえ手形を所持しない他国者でも、五体満足の青壮年であれば入国を許し、藩政のきびしい時代としては、きわめて異例の処置と思えるが、彼らに、鋤鍬と小屋を与えて、この黒部川に送り込まれた。

 ※この霞提は急流の築提としては、人類の傑作と呼ぶべき工法である。
 この霞提の構造は、堤防を完全に締め切るのではなく、計画量を超えた洪水は流水の逆方向の川上から徐々に溢水(いっすい)させ、人畜、田畑の被害を最小限におさようと言うものである。